無題(仮)

講師(リレーション)
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概要
「他のジャンルは(とりあえず)さておき、音楽(学)においては「作品」を哲学的(存在論的)に考えるとロクなことにならないというのがここ30年ほどの共通認識になっている。そもそも西洋音楽史において「作品」概念が確固たるものとして確立されたのが19世紀になってからであること、それがオーケストラというフォーマットの制定や著作権や録音技術の発展など「同じ」演奏の反復を可能にする諸々のテクノロジーとそこから金銭的な利潤を生み出す仕組みと連動していたこと、そのような流れによって「演奏」と「楽器」の次元が言説上はカッコに入れられるようになり、作品に関する議論が(政治・経済的な要請を覆い隠すアリバイとして)もっぱら抽象的な「楽譜=テクスト」のレベルとこれまた抽象的な「音」のレベルをめぐる生ぬるい形而上学に終始しがちになっていったことは、さんざん論じられてきた。たとえば、20世紀後半のジョン・ケージやデーヴィッド・チュードアなどの実践はそのような一般的な流れに対するアンチテーゼとしてある程度までは読めるが、「作曲家」をかたくなに自認していたケージの場合は「楽譜」に固執するきらいがあり、「演奏」と「聴取」の不確定性に傾いたあとも《4分33秒》などにみられるように「題名(=言語)」によって作品を同定する傾向がいぜんとして強かった。それに対して、演奏から音楽を考えていたチュードアの活動は「作品」概念といつも折り合いが悪く、そのことは自分の音楽を作るようになったあとでも彼が「作曲家」という名称をずっと嫌がっていたことにも反映されているが、そんなチュードアが1972年に初演した《無題(untitled)》というタイトルのシリーズを詳細に分析すると「楽譜」「楽器」「演奏」「題名」「聴取」という「作品」の同一性を支えるシステムを人知れず根幹から覆す仕掛けが施されていることが判明し、それが今日にいたるまでマース・カニングハム・カンパニーが《無題》の音楽を別の「作品」として再演し続けてしまっていることにつながる。」などといったことを話すかもしれません。ただし個人的にそんなことより関心があるのは、世の中にとりあえず仮のものとして「作品」を流通させておきながら、じつはその「作品」を部分として含む別のスケールでの「作品」をこっそり制作するという実践で、「アリバイ/囮としての作品」や「「作品」の同定じたいの不確定性(の極地)」というテーマの話になりますが、こちらは内容上あまり知らない人たちの前でぐだぐだと語ることではないので、とりあえずのアリバイとして表向きは歴史的なトピックにフォーカスすることになると思います。
日時
2023年3月4日(土)17時〜18時30分
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